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2006年09月28日

生協 単協と事業連合・日生協 部分と全体(2)

それぞれの価値観に基づいてくらしている組合員さんの暮らしに対して、生協(理事者)の価値観を押し付けることはできませんしすべきではありません。また、事業連合の側から、たとえ善意からの想いであっても、「この商品は使うべきでないから、店に置いてはいけない」とか「この商品はこう使わなくてはならない」とか、価値観の押し付けやくらしかたを指導・コントロールしていこうとするなら、傲慢のそしりは免れないでしょう。私はそう思います。全体性を持っている組合員さんのくらしに対応して、その一部を担う単協・事業連合・日生協=生協の側から、より役立つように接近していくことこそが必要なのです。「生協のレベルに合わせて生活してください」ではなく「くらしの要望に応えられるように生協が変わります」とならなければならないわけです。

では、生協は受動的で良いのでしょうか?そうではありません。これについては、とても参考になる事例があります。日本の図書館の新しいあり方を示した事例です。「良書普及」の思想で、偉い人が良い本決め普及していく、かつての日本の公共図書館のあり方を、「イギリスの図書館は求められてもいない本を配ったりしないが、求められた本は必ず提供する」というイギリスの図書館に学び、日本に「新しい図書館」を生んだ実践のドラマです。「移動図書館ひまわり号」(前川恒雄・筑摩書房)に詳しく書かれております。この本は絶版になっていて購入できないようですが、公共図書館には必ず蔵書しているはずですので借りて読んでみてください。

コープみやざきは、それまでの「コープ商品普及」の考え方を改め、実際の暮らしから出発し、移動図書館ひまわり号の考え方で、店舗の品揃えを切り替えました。心配なことがありましたので、前川先生を訪ね質問をしました。「求められた本は必ず提供するとのことですが、もし『エロ本』のリクエストがあった場合にもそうされるのですか?」恐る恐る尋ねました。先生はきっぱりと「はい。提供します」即座に答えられ、「でも、永く図書館にいますが今まで一度もそういうリクエストはありません」とおっしゃいました。市民への深い信頼と愛情をつよく感じ、そういう風に人を見ていた自分が恥ずかしくなりました。そして、全体性をもった人間と、規模は大きくてもくらしのある部分しかになえない組織との関係性がすっきりと整理でき、店舗の品揃えの考え方が定まりました。

何が全体で、何が部分か?よくよく考えないと、見かけの規模に引きずられ、全体性にフィットしている「質」を見過ごすことになりかねないと自戒しています。

2006年09月20日

生協単協と事業連合・日生協 部分と全体(1)

 まず、組織(社会)的包含関係について。一人のコープみやざき組合員さんは、⊂ コープみやざき全体の組合員に含まれます。コープみやざきの組合員は、⊂ コープ九州加入生協全体の組合員に含まれます。コープ九州加入生協組合員は、⊂ 日生協加入生協全体の組合員に含まれます。日生協加入生協組合員は、⊂ 日本全体の生協組合員に含まれます。組織(社会)の場での包含関係は、一人が部分で組織が全体です。
ところが、商品購入関係になると関係が逆転します。ある一人の組合員さんが購入する商品は、⊃ コープみやざきで購入するだけでは満たせません。同じように、コープみやざきが品揃えする商品は、⊃ {コープ九州が品揃えした商品と ∪ 日生協が品揃えした商品の和集合}では満たせません。ですから、他ベンダーから仕入れます。たった一人の組合員に応えるのでもそうですから、20万世帯の組合員家族へ対応するとなると、もっと開きが大きくなります。単協でさえそうですから、事業連合・日生協との関係では、更に開きが大きくなります。
 全国組織であっても、たった一人の組合員が必要とする商品でさえ、すべてを満たすことが出来ないのです。そのように、商品を購入するという視点での包含関係は、一人の人生・くらしが全体で、組織(社会)が部分です。
 〔組合員と生協組合員組織の包含関係〕と、〔組合員が購入する商品と生協(単協・事業連合・日生協)が販売する商品の包含関係〕とが、部分と全体の関係が逆になることに気づくならば、共同仕入れ・共同企画・共同開発の、組合員と単協の関係、単協と事業連合・日生協の関係のあり方もおのずからはっきりします。事業連合・日生協が単協の商品を完全にカバーすることにはムリがありますので、やる理由は事業効率の追求が主眼になるはずです。それを実現したうえで、次には広がりを求めていくことになるのでしょうが・・。
 この包含関係を理解して、その包含関係と整合的に事業連合を構築しなければ、事業は長い目で見ると一人ひとりの組合員の生活への貢献度を下げていく(組合員への生活シェアーを低下させつつ、加入人数の増加によって事業規模を拡大する) ことにならざるを得ないと思います。

2006年09月13日

何のためにを5回繰り返せ

コープみやざきの職員Yさんの日報でこういう報告を読みました。「給付の対象外ということで諦めていた組合員さんが、以前担当であった職員Hさんにアドバイスされ申請したところ、すぐに給付が受けられ、すごく喜んだ。その組合員さんは、『たすけあい共済は、本当に組合員さん同士で助け合っていることを実感できた。今度は私が皆さんを助けたいので、更改する時期になったらL4000に変更したい』とおっしゃってくれた」。この日報を読んで、「組合員さんは、けっして自分が得になることばかりを求めているわけではない。人のために役立つことこそ真の喜びなのだ」ということを確信しました。
私たちがシステムをつくる場合、「受け手が真に望むことなのか?」を考慮してつくる必要があります。でもそうなっていないこと多いように思います。なぜそうなるのか?それは、相手が望む表面的な言葉だけに基づいてつくってしまうことに原因があると思います。優れた建築士が、家を設計する場合、その「家族のこれからの生き方」を徹底して聴くそうです。そのためにラフな案を出し、それを見せながら聴くといくつかの意見が出てくる、それを何回も繰り返し、そして専門家としての意見で時には、顧客の見解を否定し、こうしたほうがいいですよ、などの提案をしてまとめ上げていくそうです。
 「なぜを5回繰り返す」をもじって、言ってみれば「何のためにを5回繰り返す」ということです。そのことで、本人も気付かない、潜在的な望みまでたどり着いた上で、それを顕在化し設計に取り掛かることが大事だと思っています。家やIT基幹システムなど、建て替えなどしたくないものは、特に・・。
 ㈱CMSではそのように仕事がしたいと思います。

2006年09月07日

データを情報へ高める感性を磨く

 最近よく思うことは、インターネットメールを使ってのコミュニケーションと日常の膝を突き合わせてのコミュニケーションとはかなり異なるものがあるということです。どのように異なるのかというと、メールでは「いやよ、いやよも好きのうち」と言うような、言葉とは裏腹な身体に表れる態度を読み取りにくく、会話の幅が狭いということです。
 逆にこれは、とても言いづらいことを言うのには適しているようです。朝帰りなどして、顔を突合せて言い訳などしている間に、相手の顔色が変わり、怒りの気配が自分を責めてくるような、あの気まずい時間を持たなくてすみます。最近、大量の従業員の解雇通知をメールで通知して世間の顰蹙を買った企業がありましたが、膝を突き合わせては、とても言えなかったからでもあるのでしょう。
 膝を突き合わせてのコミュニケーションは、一方がしゃべる、それを聞いた片方がそれを受けて応答するというような機械的な会話ではなく、しゃべっている一方は相手の反応を感じ取りながら話しているし、聞く片方も相手の話に、意識・無意識に反応し、場合によっては制止するぞと思いながら聞いています。
 そう考えると、互いが感じあえない、メールは情報というより、データに近いのかも知れません。コンピュータで作るのも情報ではなく、データだと考えたほうが良いと思いました。(情報システム部ではなく、データ作成部?)。そのデータを情報に高めていくのは、そのデータに意味づけすることだと思います。IT部門に関わる吾々は、データを意味づけし情報に高め得るだけの感性を磨く、日常の努力が欠かせないことを痛感しています。