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2009年08月26日

経営に終わりはない

藤沢武夫という、本田宗一郎とともに副社長として”世界のホンダ“の基盤をつくった人がいる。

「経営に終わりはない」とは、その、藤沢さんが書いた本〔文春文庫・438円〕の題名である。その中に、「万物流転の法則」という項があり、今の時代にこそ読まれる必要があると思った。

世の中には万物流転の法則があり、どんな富と権力も必ず滅びるときが来る。しかし、だからこそ本田技研が生まれる余地があった。だが、この万物流転の掟があるかぎり、大きくなったものもいずれは衰えることになる。その掟を避けて通ることができるかどうかを勉強してもらいたいということなのです

ホンダの各工場の大学卒の技術者を一週間缶詰にして経営について勉強してもらったときのことである。昭和34年頃の話である。

若い技術者に対して、会社の生き方ともいえる問題を問いかけ考えさせる。この藤沢さんの語りかけは、今我々が考えなければならない問題だと思えてならない。

経済が文字通り「経世済民」=民を救うべく世の中を治めることであるとすれば、経済活動を営む、企業・組織は、経営に終わりがあっては困る。
逆に、経世済民と離れ、自企業の存続のみの繁栄を図る企業・組織は終わってもらわなくては困る。


2009年08月19日

部分と全部と全体と

「どこからがあたまで、どこまでがひたいか?」よく落語などのネタになる話である。あなたは、どう答えるだろうか?

アナログという連続の世界では、部分と部分とは切れ目なくつながっているわけだから、部分といっても「そこら辺り」というようにアバウトにしか表現できない。したがって、部分を積み上げて全体になることはありえない。

全体先にありきなのだ。卵子という単細胞(全体)が分裂を繰り返しす過程で「部分」をつくりだしていく過程をみればよく理解できる。

コンピュータは、〇,1のデジタルの世界なので、境界をタ定め、部分を特定できる。このコンピュータ世界から現実を見るがゆえに、あたかも部分の積み上げが、全体になるという錯覚が生まれるのではないだろうか?部分をあつめて全部とはいえても、それは全体ではない。

仕組み、システムを構築する場合は、どんなにぼやけていたとしても、「全体」の構想、仕組みから出発しなければならない。が、部分を積み上げ、全体システムを構築しようと構想することがいかに多いことか!

店舗での品揃え。部門で考えていないだろうか?それも必要になる。しかし、その前に一人の利用者(全体)が必要な品物は?ということから仮設を立ててから、部門で検討する順序にしなければ、
大事なことを見落とすことになる。

「共同購入商品案内カタログの今週の品揃え全体は、これでいいのだろうか?」と問い続ける人は、いるのだろうか?これもまた、最初から、単品・部門から分析していないだろうか?

「組合員さんの立場に立って」といってはみても、部分からみて全体性をもって暮らす組合員さんの思いを、的確に受け取ることが、本当にできるのだろうか?

全体性を身につけるのは、そんなに難しいことではない。「組合員になってみる」ことさえできれば、全体性が実感できるのだから。

「全体から部分をみる」「全体をみて、部分をみる」ことができればいいのだから。

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2009年08月12日

人間には人間がなかなか殺せないように出来ているらしい。「第2次世界大戦の時には、米兵の2割弱しか、敵兵に向かって発砲していなかったそうです。それで、躊躇せず条件反射的に発砲するよう心理学的知見を使って訓練改善した。結果、ベトナム戦争では発砲率が9割を超えたらしい」〔福岡賢直さん、安里英子さんとの対談より、毎日新聞090812〕

「人に親切にして喜んでもらえると、自分もうれしくなる。だから、益々喜んでもらえるようにする」。これは誰しも体験することだ。このことも「人間はそう出来ている」、としか言いようがない。もともと持っている善的性質を高めていくことによって喜びが増す、逆な動きだと心が破壊されていくのではあるまいか。

「人間はそう出来ている」という性質を出発にして、「善に循環させる」か、「悪に循環させる」かは、社会や組織がもつ文化・風土が決めるということだろう。

さて、「自分だけは別だ」、と言い切れない吾が組織は、吾が社会はどうであろうか?

事物を効率的に変えていくためのものがシステムであるならば、システム構築の前に、組織中に善の価値観を醸成しなければならない。悪循環が効率よくなされればこまるのである。その価値観に整合的なシステムだけが、善の循環を創りだすのだと考える。

これは組織トップをはじめ組織人の極めて重い責任だと思う。善の価値観を醸成する組織文化・風土になっているか、そしてシステムの真の目的が善の循環を意図したものであるかどうか、そのシステムのあらゆる部分が、善の価値観に整合的になっているかどうか、そのことが確かめられ、改善されていかなければならないと思う。

どう考えられ、どうされますか?

2009年08月06日

ロボットと組織

アシモフのロボット工学の3原則があります。第1条:ロボットは人間に危害を加えてはならない第2条:ロボットは人間の命令に服従しなければならない。ただし命令が第1条に反する場合はこの限りではない第3条前2条に反しない限り、ロボットは自分を守らなければならない

この3原則が最初に発表されたのが1942年というから驚きます。私が生まれる4年も前なのです。その頃世界は第2次世界戦争の真っ只中で物資が不足し、ロボットなど想像もできない状況下にあったのではないかと思います。ホンダのアシモ君など人間的ロボットがあちこちの企業で造られていますので今なら考えられて当然ですが、ロボットなどがなかったこの時期に、ロボット工学の3原則が考えられたことに驚かされます。

話は変りますが、会社や国家など組織と人間の関係を考えていて、ふと思ったのが、組織とロボットは同じようなものではないだろうか、ということでした。組織は人間が人間で造り、人間が動かします。ロボットは機械です。その違いはありますが、自然により造られた生身の人間は、人生の途中で造りかえることはできません。組織はどんどん造りかえられます。やはり組織は生身の人間よりかはロボットに近いのです。

とすれば、ロボット工学の3原則を組織の3原則に読み替えたらどうなるでしょうか?。第1条:会社・国家は人間に危害を加えてはならない第2条:会社・国家は人間の命令に服従しなければならない。ただし命令が第1条に反する場合はこの限りではない第3条前2条に反しない限り、会社・国家は自分を守らなければならないとなります。国を守るとは、会社を守るとは、1条2条に反しない限りにおいてということになりますね。

どうですか? 所属している会社は? 国は? 1条2条に関わりなく、先に会社、国家を守れという主張は、会社、国家が人間をコントロールしようとする発想、思想に満ちていると思いませんか?

私は、アシモフのロボット工学の3原則が、組織まで広げられて、組織の3原則として、組織のあり方を考える必要を、最近特に強く考えるようになっています

これを読まれた方どう思われますか?
組織ではなく自然人の心で考えてみてください